最近(今更)知った衝撃の事実
897: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:18:50.39 ID:0j4BB6Gx
上の方に戦争関係の話題があったので私も
仕事でどうしようもないミスをしてしまい、次の日に仕事に行きたくないってふさぎこんでた時。
家に帰りたくなくて、いつもは乗らない電車に乗って他県まで行ってみたんだ。
そこは2chとかでは戦闘民族がいるとか未開の地だとかふざけて虚飾されていたりするんだけど、そこの大き目の駅で降りてお腹がすいていたので飲み屋っぽいところに入った。
サンマ定食とビールを頼んでぼんやりと俯いていると、臨席のおじいさんに話しかけられた。
ずいぶんと負のオーラがでてた自分が心配だったそうだ。
白髪で薄い髪だったが、左目の下に大きな古傷が印象のそのおじいさんに言っても仕方ないと思いつつ、聞いてもらえるのが嬉しくてべらべら愚痴ってしまった。
しまいには嗚咽交じりになってしまった自分の背中をさすってくれて、私が泣き止むとウーロン茶をご馳走してくれた。
その時こう言ってくれたんだ。
「私が君くらいの時は戦争があったから仕事の悩みなんてなかった。でも恐い上司はいたよ(笑)それと大事な部下もね。君が悩んでいるのは仕事に真剣に取り組んでいるからなんだ、その事を自信に持って欲しい。いつか君が部下を持ったときに君が守ってあげられるよう、今はつらいが挫けてはいけないよ」
それから戦時中の話(陸軍の小隊長としてビルマというところで戦っていたそうだ)をしてくれて、地雷原を突破する時にもう絶対ダメだと思ったこと、それでも生き残れたことを静かに語ってくれた。
私は自分が修羅場だと思ってた事と地雷と弾丸の嵐の中を走れといわれた事とを比べて恥ずかしくなったよ。
でもそれに加えて、この話をどこかで聞いたことがあるなと思ったんだ。
それは多分同じく戦争体験者の祖父の話(後出しですが祖父も私たち家族と一緒に暮らしています)
それで聞いてみたんだ、○川○○(祖父の名前)という名前に聞き覚えはありませんかと
それまでおっとりしていたおじいさんの背筋が延びたかと思うと、私の顔をマジマジと見て「○川○○、上等兵。小銃の扱いに関して天才だった」と。
私は驚いたが何とか孫である事を伝え、祖父が酔うと話してくれた戦争の話を話した。
それでこのおじいさんとの話にずいぶん食い違いがあってさ。
仕事でどうしようもないミスをしてしまい、次の日に仕事に行きたくないってふさぎこんでた時。
家に帰りたくなくて、いつもは乗らない電車に乗って他県まで行ってみたんだ。
そこは2chとかでは戦闘民族がいるとか未開の地だとかふざけて虚飾されていたりするんだけど、そこの大き目の駅で降りてお腹がすいていたので飲み屋っぽいところに入った。
サンマ定食とビールを頼んでぼんやりと俯いていると、臨席のおじいさんに話しかけられた。
ずいぶんと負のオーラがでてた自分が心配だったそうだ。
白髪で薄い髪だったが、左目の下に大きな古傷が印象のそのおじいさんに言っても仕方ないと思いつつ、聞いてもらえるのが嬉しくてべらべら愚痴ってしまった。
しまいには嗚咽交じりになってしまった自分の背中をさすってくれて、私が泣き止むとウーロン茶をご馳走してくれた。
その時こう言ってくれたんだ。
「私が君くらいの時は戦争があったから仕事の悩みなんてなかった。でも恐い上司はいたよ(笑)それと大事な部下もね。君が悩んでいるのは仕事に真剣に取り組んでいるからなんだ、その事を自信に持って欲しい。いつか君が部下を持ったときに君が守ってあげられるよう、今はつらいが挫けてはいけないよ」
それから戦時中の話(陸軍の小隊長としてビルマというところで戦っていたそうだ)をしてくれて、地雷原を突破する時にもう絶対ダメだと思ったこと、それでも生き残れたことを静かに語ってくれた。
私は自分が修羅場だと思ってた事と地雷と弾丸の嵐の中を走れといわれた事とを比べて恥ずかしくなったよ。
でもそれに加えて、この話をどこかで聞いたことがあるなと思ったんだ。
それは多分同じく戦争体験者の祖父の話(後出しですが祖父も私たち家族と一緒に暮らしています)
それで聞いてみたんだ、○川○○(祖父の名前)という名前に聞き覚えはありませんかと
それまでおっとりしていたおじいさんの背筋が延びたかと思うと、私の顔をマジマジと見て「○川○○、上等兵。小銃の扱いに関して天才だった」と。
私は驚いたが何とか孫である事を伝え、祖父が酔うと話してくれた戦争の話を話した。
それでこのおじいさんとの話にずいぶん食い違いがあってさ。
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897: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:18:50.39 ID:0j4BB6Gx
・祖父の話
要約すると戦地で足とお腹?を打たれて仲間におぶってもらってやっとのことで帰ってきた
・おじいさん(祖父の所属していた隊の小隊長)の話
祖父は小銃射撃の名手でいつも危険な場面を真っ先に志願していた
ビルマ戦線で退却中に地雷地帯に迷い込んでしまい、退却速度ががた落ちになってしまった
その時に最後尾で敵を食い止めたのが私の祖父だが、その最中に銃弾を足と腹に受けてしまった。
おじいさんたちは地雷の除去?で安全地帯を作ったあと祖父を省みたが倒れてて苦しんでいたそう。
助けに戻ろうとした時に祖父が「俺はここまでです、一発で(頭か心臓を撃ってくれの意)お願いします(当時の日本軍人は捕虜になることが死ぬことより恥だった)」と頼んだそう
でもおじいさんはそんな祖父を見捨てずに地雷原の中に戻って祖父をおぶって逃げてくれた。
祖父に聞いたときは、なんてドジなじいちゃんなんだろ助かってよかったなぁと思ってたのに、こんな真相だったとはえらい衝撃でした。
祖父ばかりか孫の私までこのおじいさんに救っていただいて本当の意味で恩人です。
このたび祖父と小隊長であるおじいさんが再会して、お酒を飲むことができたので記念にカキコ。
長文失礼しました。
要約すると戦地で足とお腹?を打たれて仲間におぶってもらってやっとのことで帰ってきた
・おじいさん(祖父の所属していた隊の小隊長)の話
祖父は小銃射撃の名手でいつも危険な場面を真っ先に志願していた
ビルマ戦線で退却中に地雷地帯に迷い込んでしまい、退却速度ががた落ちになってしまった
その時に最後尾で敵を食い止めたのが私の祖父だが、その最中に銃弾を足と腹に受けてしまった。
おじいさんたちは地雷の除去?で安全地帯を作ったあと祖父を省みたが倒れてて苦しんでいたそう。
助けに戻ろうとした時に祖父が「俺はここまでです、一発で(頭か心臓を撃ってくれの意)お願いします(当時の日本軍人は捕虜になることが死ぬことより恥だった)」と頼んだそう
でもおじいさんはそんな祖父を見捨てずに地雷原の中に戻って祖父をおぶって逃げてくれた。
祖父に聞いたときは、なんてドジなじいちゃんなんだろ助かってよかったなぁと思ってたのに、こんな真相だったとはえらい衝撃でした。
祖父ばかりか孫の私までこのおじいさんに救っていただいて本当の意味で恩人です。
このたび祖父と小隊長であるおじいさんが再会して、お酒を飲むことができたので記念にカキコ。
長文失礼しました。
898: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:44:05.30 ID:0wPib/7k
すごい話だ…
もう戦争経験者はみんな高齢で亡くなっている方も多いし、戦友でもどこでどうしてるか分からない人だって多いだろうから、偶然飲み屋で隣になったおじいさんが…なんて本当に奇跡みたいだわ
どちらのおじいさんもとても素晴らしい人だね
もう戦争経験者はみんな高齢で亡くなっている方も多いし、戦友でもどこでどうしてるか分からない人だって多いだろうから、偶然飲み屋で隣になったおじいさんが…なんて本当に奇跡みたいだわ
どちらのおじいさんもとても素晴らしい人だね
899: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:56:53.03 ID:RjwuEcFZ
こういう話を聞くと運命ってあるのかなと思うね
おじいちゃん達に乾杯
おじいちゃん達に乾杯
911: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 10:40:16.83 ID:Dz+eIhVf
私の背筋も伸びたことをご報告
918: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 12:59:59.26 ID:8eNtQi1A
うちの祖父もビルマで戦ってたんだ
もしかしたら似たような部隊だったのかな
生きて帰れたのが奇跡みたいだって言ってるよ
もしかしたら似たような部隊だったのかな
生きて帰れたのが奇跡みたいだって言ってるよ
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姿勢正して背筋が伸びたであります(*`・ω・)ゞ
それと奇跡の再会!
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祖父の話を流さずにちゃんと聞いていたからこそこの出会いが活きたんだよ。
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偉大なる先達お二人の数十年を経た再会で酌み交わされた酒と健康に、乾杯!!
祖母は当事生後3ヶ月の母をずっと一人で育て
先月101歳で祖父の元へ旅立ちました。
短い結婚生活だったから、今頃あちらで仲良く過ごしてくれてるといいなあ
俺の死んだジ様は衛生兵。
草刈り鎌と紙の靴を渡されて日本海側に配備されて終戦を迎えたそうな。
どちらかと言えばおちゃらけて話すぐらい。
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祖母はマントが格好良くてって言ってたな。
私が生まれる前に死んじゃったよ。
被告人席に東条英機がいたっていう話をよく聞いてたなぁ。
銃器を一切持たされず訓練も参加許されず鍬と釡で畑仕事だけさせられたって
何度も戦地に行くために来たんですって直訴したけど聞く耳持たずで畑へGO
どうして訓練さえも参加できなかったのか今ならわかるって
「お前ら子どもは生きて帰れ 武器なんぞもつな 生きる糧を作って人を生かせ」って事だったんだろうって
お盆の頃になると唯一もっている当時の友たちの写真を見ながらシミジミ呟いてた
弾丸だかなんだかの運搬係だったと言ってたけど、詳しくは聞かなかった。聞いちゃ悪いような気がして。
大っ嫌いだった祖父だけど、戦争の話はきちんと聞いておけば良かったな。10年前、92で逝った。
熊本県民さん、大丈夫かい!?
心配ありがとね
熊本市南区だけどこのへん震度6だったぜ
まだ余震あるけど人の被害はこのへんではないぽいぜ
棚倒れたり、食器が割れたりで惨事だけど暗いから明日の朝片付けようかと思ってるぜ
また8月くらいに読みたいです。
暗いうちは安全なようなら動かずどうか寝てください。体力温存を。ではおやすみなさい。
こう言った方々の戦友だったのかもしれないなあ。
まずは熊本の救援と復興だな!!
もしかしたら同じ部隊だったのかもね。
話だった…というのは、祖父が全然その時の話をしなかったからで。
母や伯母、祖母からそう聞いていた。
祖父は米寿のお祝いの時、昔話をした。
ロシア兵がトラックの荷台を銃撃してきて、荷台に乗っていた兵隊が亡くなったけど自分は下の方にいたから助かったと。
祖父の口から戦争の話を聞いたのはその時だけだったな。
母や伯母や叔父叔母たちも祖父から戦争の話を聞いたことは殆どなかったって言ってた。
思い出したくない経験だったんだろうって今なら分かる。
ひょうひょうと戦時中の国内のお話は聞いたけど戦地の話はない。
いろいろ聞きたいってアピールしてたら
「私は大変なことをしてしまった」って泣かれて聞けなくなった。
すごく良い人で家族にも愛されてる爺様なのに
そんな風に泣かせた自分が恥ずかしくなった。
同時に戦争って想像つかないほど大変な事態なんだって想像した。
爺様たちには悪いけど、戦後世代はもっと知らないといかんと思う。
私たちだけならず後世にも伝えないといけないんだ!と切実に思う。
確かに辛い話はしないね
ただ、授業の一貫で「お爺さん達に戦争の話を聞こう」的な奴で、
当時フィリピンだったかな?そこの人達に何か教える仕事してたらしく、ほぼ戦ってなかったようで
「あん時皆でバナナ食ってうまかったーw」だの
「何々して楽しかったわw」
な話を友達一同の前でされたときはもうちょい重い話しろやジジイとは思ったよ
後の授業で聞いた話の発表する時の居たたまれなさったらもうね
うちの班だけ戦時中のほのぼのエピソードになったよ畜生
熊本の人、大丈夫か?
真冬のことだったので部下や上官は寒さや機雷の誘爆で結構死んでしまったが、ひいじいさんはどうせ死ぬならと酒をありったけ飲んだ(上官にそれくらいにしとけと言われるほど)ためなんとか体温を保って帰ってこれたらしい。
その後酒で肝臓がやられて比較的早死にしてしまったらしい。らしいばっかで申し訳ない{(-_-)}
酒も適度な量が一番ってことですな。
人生はドラマだ!
ウチのジィ様。飯炊きが上手くて上官に気に入られて、徴兵されたけど戦地には行ってないそうだ。
「お前は専属の飯炊き!」の命令を受けずーっと飯炊き係。
ジィ様のジィ様より更に厳しかったバァ様が「自分の食うもん位自分で作れるようになれ!」と教育した当時としては珍しいひぃバァ様のおかげで私が存在するのだな…
自宅に戻って私の母を見ての第一声が、「この子どこの子?」
出兵中に生まれた私の母がパタパタと走り回っているのを見て、妹とは思わなかったようです。
体の丈夫だった叔父が、シベリアで気管支喘息を患い、亡くなるまで大変辛そうでしたが戦時中の話しは1度もしてはくれませんでした。
会津の山奥で農業をしていた叔父が、体を壊すくらい過酷な状況だったんだと思うと、涙が出そうです。
そんな叔父も、英霊の皆様の元に旅立ちしばらくたちますが、今も母の実家には菊の御紋の盃が飾ってあります。
日本に帰ってきたら思い出すからと仕立屋をやめてしまった。
いったい何があったんだろうね。
私が生まれる前に死んじゃってるから知る術もないけどさ。
満州に行っていたそうで。切ない話と面白おかしい話を一つずつ教えてくれた。
いろいろあるけど印象に残っている話。
当時食料不足でアメリカ兵の所に潜入して食料をとってきた時。
チーズがあったそうなんだけど、それがどういう物か分からなかったので若い兵士に聞いてみたら「はっ!それは味付けバターであります!!」と言われた〜と笑ってたなぁ。
切ない話をしている時の目が、子供心に怖かったけど。もっと色々聞きたかったな。
今、怖いのは東海大地震いつ来るのか…(;´Д`)
そーっとプレート戻ってくれないかなぁ…
あの大和を作った都市だ
じいちゃんは戦時中造船工場にいたらしいが、何を造ってたかは黙したままだった
あれは黙秘してろって命令に従ってたんだろう
めちゃくちゃ遅くにできた孫の俺を凄く可愛がってくれたが、それはそれ、これはこれってことらしかった
唯一話してくれたのは、ヒロシマに原爆が落とされた後のこと
本当にちらっとだけど、忘れられずにいる
こうやって気楽にネットにつなげて発言出来ることのありがたさをしみじみかみしめてるよ
この国のために戦って散った人に、敬意を込めて
∠( ̄^ ̄)
そして、火の国の振動が早くおさまりますように
片方はわたしが幼い頃になくなったから戦争に関する話は全く聞けなかったけど、90歳で健在の方も、今年になるまで1度も当時の話をしてくれたことがなかった。
伝えなければって想いよりも、思い出すのが辛い程の経験だったんだろう。
手のひら打たれて中指が他の指と同じ長さになったとかなんとか。
自分も呉の人間。
母方の爺様は工場で色々作ってたって聞いた。
大和を作ってるの、仲間とこっそりのぞきに行ったんだって。
父方の爺様はフィリピンで、親父様の顔を見ないままあちらに旅立った。
他にも入地被曝した大叔父もいたな、顔は知らないけど。
今の平和を感謝して、地震の後片付けを考えようと思ったよ。
種芋を渡されて農作業するように命じられたから、芋を沢山植えられるように目が出る部分ごとに小さく切ったんだ
そしたらソ連兵が「何をしてるんだ」って聞いてくるから理由を説明すると、「すげえ!目から鱗!」みたいに超はしゃいでたんだって
どうやらそのソ連兵、芋を育てるコツを知らなかったらしい
よく「俺はソ連に農業指導してやったんだw」ってじいちゃんよく言ってたなー
ほのぼのエピソードの方が貴重な話な気もするな。
目の前に黄泉の国が口を開けて待っているような日常の中で
それでも 日々ささやかな楽しみを持つことで
正気を保って過ごされてきたのだから。
そういえば うちの祖父(故人)も辛い話はしなかったな。
義母は当時女学校生で、学徒なんとか(動員とは言ってなかった)で
軍需工場で働いていたそうな。
たび重なる空襲からなんとか無事に逃げ伸びてたのに、
慣れない工作機械でケガをして後遺症が残ってしまったとのこと。
当時は 障碍があると結婚なんて望めないって時代だったから
手に職をつけて一生自力で食べていこうって頑張ってたら
就職先で義父に出会ったと。
『あの時は 悪い事ばかりだなあって悲観してたけど
生きてれば良い事もあるものよねぇ』って 義母は笑ってた。
そんな「銃後の戦争」もあったことも 記憶にとどめておいてほしい。
ありゃ泣ける
こんなに真面目なコメが集中して、
やっぱここの住人達はすげーな!
何で話さないか尋ねたらボソッと
「『銃を持って敵を倒す事がお国のため』と思って戦ったのに、今は学校で『日本は悪い事をした』と教えている。まるで俺達はサツ人者扱いだ。何のために俺達はあんな思いをしたと思ってるんだ?そんなの話せるわけないじゃないか」
みたいな事を言われた。
それからは聞けなかったな。
祖父が本国に帰るのに乗った補給船が最後の便だったそうです。
ひとつ何かが変わってたら、もしかすると私はこの世には生まれてこなかったかもしれません。
生きる気持ちはわかるまい
覚悟を決めて東北の山奥から横須賀まで出てきたら、そこで終戦の詔を聞いたそうだ。
手先が器用で酒好きで誰にでも明るく接する人気者だった。
あちらで元気にしてるかなあ…
じいさんが亡くなってから、ばあさんに「じいさんと話した記憶ないや」って云ったら、「じいさん、人見知りだったからねー」って云われた。衝撃的だった。そのじいさんの人見知りはトーチャンに遺伝して、しっかり私も受け継いでるぞ。
祖父は父親が牧師で、戦中に牢獄に入れられ病気になり死亡していたらしい。そのせいか戦争のことなんかほとんどしゃべらなかったよ。なくなった父親のこともね。本人は倒れるまで教会にかよっていた真面目なメゾジストだったようだけど。本当は祖父は牧師になりたかったんじゃないかなぁと思ってる。でも時代が許さなかったんだろうと。
戦争はいろいろなものを奪うね。
祖母はサハリン生まれのサハリン育ちで戦後日本に帰国するのに苦労したと聞いている。
熊本の皆さんが一日でも早く安心して日々を送れますように。
ただ元々警察官で部隊を率いる立場だったこと、武道の師範だったこと、敗戦のあとはアルコール依存症になり早世したことしか知らない
物心ついた頃にはアルコール依存になった祖父しか知らないせいか、父はアルコールを嫌悪している
本当はどんな人だったんだろう
特攻隊の予備員?で戦争が長引いていたら特攻していただろう、としか聞いていない
じーさんの本当の誕生日は4/29だったが、長い間4/30ということにしていた
なんでも自分が天皇陛下と同じ誕生日なんて恐れ多い、という理由から。
戦争の事は教えてくれなかったが、昔の人の天皇陛下への思いは伝わったよ
長男のくせにお国のためになれないばかりか、弟たちの未来を無くしてしまったとお盆の度に仏間で泣くじいちゃんが切なかった。
投稿者様の御祖父様がしんがりを務めたからこそ小隊長以下の隊の命を救ったという側面もあるかと
そしてまた、そんな方々が戦後を担われたおかげで今の日本がある事を思うと涙を禁じ得ません
だからこそ報告者もおじいさんをドジなおじいさんだと思ってたわけで。そんなところもかっこいい
私は恥かきっ子なので父親。
戦友の方に特別な思いを持っているのは感じていました。
戦争体験を聞いたのは只一度。三島由紀夫の時の介錯の仕方でした。
戦争は酷いです。
家族や戦友のために戦えても、政治家のためには絶対戦えません。
(`・ω・´)>
長く向こうにいたせいか、中国語がペラペラだったそうだ。
せいしょこさん、こと清正公の御加護のあらん事を。
母方の祖母(故人)の弟が、20か21だかで南方の海で乗艦が撃沈され亡くなられたそうだ。
当然遺骨など帰ってこない。俺の母が生まれる前のことで、独身だったんだと。
おばあちゃん子だった俺だが、その話を聞いた子供の頃には特に何も感じなかった。
今頃になって、現在の自分の半分も生きられずに命を落とされた大叔父のことを思うと胸がしめつけられそうだ。
今度海へ行くときには、何か供養になるものを持っていこう。
私が生まれる前に亡くなったから私はあってないけど、あっててもやっぱり聞いてもその話したがらなかったんだろうな。
軍の施設の地下って何があったんだろー?
うちの祖父は満州を経て皇居周辺の護衛をしてたそうな。大伯父は大戦の開戦直後に南方で…。
さて、GWは墓参りに行くとしますかね。
佐賀県から親戚がいた長崎へ探しに行ったそうです。
当時の一般人が放射線とか放射能なんて知る由もなく、
ただ ただ 親戚の無事を祈り 探しに行ったんです。
ガレキしかない廃墟と化した町で、父は何を見たのだろう。
父は当時の事を話したがりませんでした。
言ったのは 一言 「・・・ひどかった...」 それだけ。
父は被爆者健康手帳を持っていません。
申請の条件を満たしてなかったらしいのです。
死体の処理及び救護にあたった者等で
(救護施設などで10人以上(1日当たり))...
父は親戚を探すのが目的で行ったので、遺体の処理などしてない。
でも被爆地へ入ったので 被爆してると思う。
今から33年前父は癌で他界しました。
私は今年父の年齢より1年長く生きました。 あと何年 生きられるでしょうか。
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食べ物もあまり与えられず、木の根や野犬などをとって食べて飢えを凌いでいたときいた。
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日本に帰ってくるときには本当に少ない人数になっていたそうだ。
小さな頃に1、2回話してくれただけの戦争の話だったけれど、今もすごく印象に残っている。
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とりあえずモテたそうだ。
父方のじいちゃんに至っては軍需工場経営してたから赤紙すらもらってない。
母もほぼ聞いたことがないらしい。
ただ、テレビでやってた戦争映画を見て、戦争はこんなにやさしいものじゃない、もっと苦しい、と言っていたそうで、
ずっと聞くに聞けない
うちの祖父は大和の機関士でした。
正確に言うと軍人ではなく、軍属。
もしかしたらあなたの御祖父様が製造に携わった大和の心臓を、わたしの祖父が動かしていたのかも知れませんね。
命をかけて闘ってくれた方たちに感謝します
なんでもよくたべる祖父は、ほとんどの仲間は餓死だったとうなだれるようにして言っていた。食べれるものは何でも食べた。食えそうにないものだって食べた。正直、人以外ならみな食べたと。だから好き嫌いなんてするわけないと言っていたよ。(そのわりにこれマズイぞおい!とかは言うww)
もう呆けてしまったのに、今でもお盆になると亡くなった戦友が見えるのか、生き残ってごめんと涙を流す。戦争なんてしちゃいけないね、本当に。
でも実家は長崎 こちらにいても危なかったのかも
祖母は被爆者でした。戦争はいやだね。
そして 熊本の皆さん 長崎からですが ボランティア等手伝えることがあったら、すぐに飛んでいきたいます
お辛いでしょうが 頑張ってください
生き残ってくれて、ありがとう
熊本、大分で震度5以上の地震がある時はココも揺れて数分ごとに通知が来るから不安になる。
今日から九州は雨続きで熊本県、大分県とかでは土砂崩れに地震とか怖いけど、九州全体で頑張ろう!
今の平和を作ってくれた自分の祖父母含め大変な時代を過ごされた方々に感謝と敬意を!
本当にありがとうございます
※39です
そうか、じーちゃんと間接的にでもかかわった人がいたんだな
あの時代、じーちゃんと同じ場所にいた人(の孫)がいたことに、少し感動している
じーちゃんが黙したまま逝ったのは、黙秘の命令に従ってたと同時に、
艦と共にたくさんの命が坊ケ崎沖に沈んでいったからかもと数日前
ふと思った
当時のじーちゃんは己の務めを果たしてただけだったろうが、
だからこそ、孫の俺にすら語りたくなかったかもしれない
※79の祖父上はご無事だったのだろうか
すごく寒くて、朝目が覚めると隣の奴が凍死してたとかザラだったって。
※欄でどなたかも仰ってたけど、穴を年中掘ってたって言ってた。でも、土も凍ってるから深く掘れないんだよーって。
「おれはシベリア帰りだから暑いのが苦手なんだよ」と冬でも室内でランニングだったりして困ったw
でも息子さん(私より随分年上)にシベリアのことを話したら「おれは戦争の話なんて一度もきいたことないよ」って驚かれた。
やっぱり息子にははなしにくいんだろうなぁ、身内じゃない小娘にだからいえるんだろうなぁってちょっと切なくなった。
召集前は時計屋だったので、時計の修理で重宝された、と聞いた。
それ以外のことは一切話してくれなかったけどな。
先生は海軍士官の娘で、1男10女の末っ子。昭和16年に先生が生まれたとき、先生のお母さんは姑から「こんなに産んでしょうもない…」と言われたらしい。
父親はずっと出征していて、先生は写真でしか父親の顔を知らなかった。海軍士官の軍服を着けた、立派な姿の写真だったらしい。
終戦後の昭和21年、ようやく父親は帰ってきたが、ガリガリに痩せて、軍服はぼろぼろ、汚れて真っ黒な顔の異臭漂う姿に、当時5歳の先生は「変なおっちゃんが来た!」と号泣して、ひっくり返ってしまったらしい。
以来、先生はトラウマから、どうしても父親を「お父さん」と呼べなくなってしまい、呼ぼうとしても声がでなかった、と。
奉職して、遠い赴任先で寮生活を送ることになり、実家と距離をおいたことで、ようやく心に余裕が出来て「お父さん」と呼べるようになったそうだ。
曽祖父も現地でのことはほとんど話したがらなかったようだが、祖母(曽祖父の娘)やその兄弟は、帰ってきてからは別人のようだったと、ひどく殴られることも多かったと零していたらしい。
母が祖母の末の弟に聞いたところによると、曽祖父が一度だけ、現地であまりの飢えに人肉を口にしたことがあるようなことを言ったらしい。
もう本人に確認することは出来ないし、聞くのも憚られるようなことだが非常に衝撃を受けたのを覚えています。
やなせたかしさんが
「本当に飢えると、人肉だって食べようかという気になるんですよ。想像できますか?戦争とはそういうものなんです」みたいなことを言ってた。
アンパンマンを作ったのは戦争の影響もあったみたい。
じいさんたまに「少尉どのー」ってうなされてたわ。
そういう話もあるんだってことで。
祖母に電話で聞いてみた(毎晩電話してた)ら、いつも穏やかで優しくて色々教えてくれる祖母が
恐ろしい恐ろしい、思い出したくない
としか言ってくれなかった
当時は課題ができないと勝手なこと思ったけど、
今は「それが戦争なんだ」って思う
言ってくれなかったんじゃなくて、言えなかったんだって思う